天使の羽と魚のうろこ

星乃すばる



 夜明けまえの森の、大きな木のてっぺんにちかい枝に腰かけて、天使がとおくを見ています。足をぶらぶらさせながら、なにかをなつかしむように、物憂い笑みをうかべて。

 風にゆれて顔にかかる青銀色の髪をかきあげて、それでもじっと東の彼方を見つめています。

 不夜の都がちかいものですから夜空に星はまばらで、ちかちかと行き交うのは夜行便や衛星です。じきに第三層まで骨組みができて、森のてっぺんのあたりも、音波の交通網にのみこまれるでしょう。

 となりのねぼけた木が、あくびをしました。おどろいたふくろうが飛びたって、天使がすわる枝に降りたちました。

 天使はふくろうに目を向け、声をかけました。

「こんばんは」
「ああ、ぼっちゃんじゃありませんか」

 ふくろうはタキシードのポケットから赤いハンカチを取り出して、頬ににじんだ汗をぬぐいました。

「ぼくはあなたと会ったことがあったろうか」

「いえ、お話しするのははじめてですよ。でも、ぼっちゃんのお母さまはいつもよくしてくださいますし、ぼっちゃんのことをお話しになりますから、私どもはあなたが夜空で遊んでいるのをみて、勝手にぼっちゃんとお呼びしておりました」

「ありがとう」
「いえ、滅相もございません」

 ふくろうは毛をすこし逆立てました。

「ところで、ぼっちゃんはここでなにを待っておいでなのでしょう」
「待っているように見えたの」
「ええ」
「そうなのかな」

 天使はまた、とおいところを見つめて、「そうか、ぼくは、待ってるのかな」とつぶやくと、それきり彫像のように沈黙しました。ふくろうはしばらくその様子をうかがっていましたが、天使がそれきり動かないので、ほうほうと口笛をふいておりました。

 東の空にうっすらと透明な波がかかって、夜明けが近づいてきたころ、天使が「あっ」と声をあげて、目を見開きました。

 きらりと夜空をよこぎって、星の子がおちていきました。

 そのななめの軌道にオーロラのような波がかかって、そのままぱっくりと夜空が割れ、夜よりももっと暗い闇の奥から、おびただしい魚の群れが空にながれこみました。

 さざざ、さざざささ、ざざ……

 白や透明にかがやく魚たちから、メタリックなうろこがはがれおちて、森に銀色の雨がふりそそぎます。東の空は水色にふくれあがって、魚はそのあかるい光の幕めがけてつっぱしり、みるまに先頭のほうが見えなくなりました。

 天使とふくろうは、魚たちがつくる透明な帯を見上げていました。銀色の雨は、森や、あるいは都のはしっこにも届きましたが、天使とふくろうだけが、そのうろこの持ち主たちがやってきて去っていくのを、記憶したのです。

 ざささ、ささ……さ…………さ……
 さ……………………

 魚たちがすっかり行ってしまって、裂け目なんてなかったように夜空はふたたび塗りつぶされて、そこに東に広がった水色がしみていくあいだ、ふたりはずっと空を見ていました。

 夜明けの静寂に、都までもがとっぷり沈んでしまったころ、天使がぽつりといいました。

「魚たちはいってしまった。あの子たちのことをずっと見ていた。ちいさなころから。でも」

 都のうえでは人々の見る夢がたゆたって、摩天楼をドームのようにおおっています。天使はそれを寂しそうに見やりました。

「あの子たちはついていけなかった。あの都にうずまいている音や時が、あまりに大きくふれるようになって、悲しみもやさしい思いもみんなすぐに流れていってしまうようになって。だから、どこかべつの国にいってしまった。あの子たちは」

 ふくろうはほほう、と相づちをうちました。

 山の端から、朝日が扇のように天に広がって、ふくろうはまぶしそうに目を細めました。

「ぼっちゃんも、べつの国で生きていったって、いいんじゃないですか」

 天使は目をほそめて笑いました。

「いや、ぼくはさいごの子どもになるつもりだよ」
「ほう、ほう」

 ふくろうにはその言葉の意味のすべてはわかりませんでしたが、天使の心づもりは、その物憂げな笑い方でわかるのでした。

 ふくろうは、東の空を羽で指しました。

「ぼっちゃん、こっちはすっかり朝になってしまう。私は夜会の前線に乗り遅れないように、おいとまいたしましょう」

「昼間のさわぎにあてられてしまわないよう、気をつけて」

「ほうほう、そうです、漂白されてしまいます」

 ざあ、とふいた朝の風にのって、ふくろうは西の夜へ飛び立っていきました。

 天使は立ちあがると、ながいまつげを伏せ、すそを丁寧にはたきました。

「ぼくもきっと」

 そしてもう一度、魚の行ってしまった空に目をやります。

「このからだが大きくなったら、きみたちがいなくなったひもじさに耐えられなくなるだろう。そしたら、会いにいくよ。夜明けの空をすべる魚になって」

 天使はするりとその両の翼をもいでしまいました。翼は一枚いちまいの羽になって、気流にのって、きらきらと散っていきました。

 もう天使でなくなった少年は、ふっと飛び降りて、つかの間の夢の膜を突き破り、都に帰っていきました。


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